アクアラング・アフター
十埼・竜 2022年8月13日
副作用は、ふたつあった。
ノイズイーターを被り直し(水中で着けるから【クリーニング】をかけるまで耳の周りがひどく気持ち悪い)海から、陸へ上がってから。
数時間ぶりに浴びるノイズの苦痛、のせいではないけど。
涙が、止まらなくなった。
ほら、ウミガメとか。
陸に上がってたまご産むときに涙を流す────なんて、あれは目から塩分排出してるだけですし。水中適応のちょっとした副作用じゃないですか。
こんなことあるんだねぇ。気楽に言うぼくに、そんなことあるか? って不安げな"波"をゆらめかせていた先輩の方は、実際特に涙が止まらないどころか、体の変化は全然なくて。ぼくたちはこの差が生きているからとか死んでるからとか過敏だからとか鈍感だからとかクソはしゃぎすぎたせいだとか、ぼくたちの埋まらない断絶に起因するのかもわからないまま、その日はさよならした。
楽しかった一日が今生の別れみたいだ。号泣するマネ(実際涙は止まらないわけだし)でぶんぶん手を振ったら呆れられたし笑われた。
また聴こえるようになった先輩の"波"が、思ったよりずっと硬く沈んでいたのが気掛かりだったけれど、その瞬間は少しだけ、いつもみたいに柔らかくなって、ぼくはちょっとほっとする。
呑み込んだぶんだけ両目から吐き出すみたいに、ぼたぼた、ぼたぼた、流れ落ちる涙は、冷え切った頬に随分熱かった。
海の中では、涙はどこに行っていたんだろう。
────もうひとつは、放送室内で起きていた。
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十埼・竜 2022年8月13日
ノイ?
十埼・竜 2022年8月13日
(喘鳴が返ってきた)
十埼・竜 2022年8月13日
(床にぶち撒かれた書類。ひっくり返った椅子。転がるマイク。放送室の中はぐちゃぐちゃで、聴こえてくる苦しい呼吸の出どころを追えば、血であちこちべたべた汚れた窓が目に入った)
(窓のすみにへばりつく、一抱えほどの、黒い毛玉のような身体)
十埼・竜 2022年8月13日
ノイ!?
(駆け寄って抱き寄せる。その小さな顔面が血まみれで心臓が跳ねた)
お前、大丈夫っ、……何だよこれ!!
十埼・竜 2022年8月13日
(触れた心音は、少し細いけれどきちんと刻まれている。身体は熱すぎも冷たすぎもしない)(汚れた顔を拭い、鮮やかな血が滲んで慌ててティッシュを当てる。額が切れてる)(細く目を開けたモーラットはぼくの顔を見上げ、こふ、小さく濁った咳をする。赤黒い飛沫が飛んだ)
……喉。喉が裂けてる?
十埼・竜 2022年8月13日
(もぁ、ぁ)
十埼・竜 2022年8月13日
喋んな。……今再演させるから……
(昨日はなんともなかったはずだ。その時聴こえていたモーラットの"波"を呼び出して、傷付いた体を上書きする。自然治癒に必要な時間が経過するまで、とりあえずは凌げる)
十埼・竜 2022年8月13日
("再生"しながら、あらためて周りを見た)
(窓の汚れには、よく見れば、小さな足の型がいくつも紛れていた)
(その小さな前足を、何度も、何度も、窓に叩きつけて)
(額を打ち付けて)
十埼・竜 2022年8月13日
(窓の外に叫び続けた?)
十埼・竜 2022年8月13日
………ノイ。
(汚れた窓の向こうを見る)
ぼくが、海に入るの、
十埼・竜 2022年8月13日
そんなに怖い?
十埼・竜 2022年8月13日
(何度も涙を拭った手の甲を、モーラットの小さな舌が舐め)
(か細く、もぁ、と啼いて)
………。
十埼・竜 2022年8月13日
(あの、ヘッドホンが偶然外れたプールでも)
(こいつはひどく怒って泣き喚いていた)
十埼・竜 2022年8月13日
(パラドクスでできた、一心同体の生物)
(いつも放送室に籠る、ぼく以上に機材の扱いに慣れた)
(どこにでも召喚されるはずの)
(体が傷つくほど暴れても、放送室から出られなかった)
十埼・竜 2022年8月13日
……ノイ。
(ぐったりと眠る小さな体を撫でる。……今夜は放送時間来ても寝かしておこう。あとで恨まれるかも知れないけど)
十埼・竜 2022年8月13日
(こいつは、ぼくの、何なんだ?)