闇空市場『みかん貴族』

佐野埜之子の場合2

佐野・埜之子 2月19日21時
https://tw7.t-walker.jp/club/thread?thread_id=12838&mode



●とあるオーナー運営責任者の述懐
(※時系列:新宿島漂着時/オーナー視点)

 大切な何かを『奪われて』居るにも関わらず、新宿島に辿り着いたばかりのディアボロスが自死を選ぼうとしたと言う話は余り聞かない。そこで絶望し切る様なもの者はそもそもディアボロスには成り果てないと言う事なのかも知れない。或いは復讐心が一種の箍になって居るのかも知れない。もしくは、そうであれば悲しい事だが、単に私が知らないだけで何人もの彼ら彼女らが浜辺で自らの手で命を散らしているのかも知れない。
 実際の所は分からないが。兎も角そんな認識が前提だった為、浜辺で見つけた佐野埜之子と言う名の少女が余りに無造作に刃物を己の首に突き立てようとしているのを見た時、この口から出たのは聞くに堪えない狼狽の声だったし、咄嗟に無我夢中で飛び掛かったその姿はどちらかと言うと暴漢の様だったかもしれない。
『自殺? ウチが? ……ああ、そない言うたらそうなんやね?』
 だと言うのに、少女の反応と言えば余りに頓珍漢で悲壮感に欠けていた。その癖『変な事言う人だなあ』と言わんばかりの怪訝そうな顔で見て来る物だから、つい途方に暮れたものだ。
『何回て……何回やろ? 数えてへんよ?』
 けれど、落ち着いて見れば彼女の服にはその芯にばかり血の赤が沁み込んでいた。何度も染め上げ、その都度海水で表面が洗い流され繊維の奥にだけ残ったかの様に。
 つまりそれは、何度も己の喉を突いては死に浜辺に漂着し直した結果なのだと気付いて。慌てて刃物を渡す様に要求すれば、けれど少女は躊躇なく呆気なくハイと提出してきて、それでまた少し混乱した。チグハグにもほどがあるだろうと。
『まあ、もう良えんよ。何か上手く行かへんし』
 刃物は小振りなブレードで、後で分かった事だがTOKYOエゼキエル戦争の大天使が使って居たもの。偶然少女と一緒に流れ着いた品だった。
 それでようやく何でこんな事をしていたのだと問い質す事にした。元々、下手に聞いて刺激しない方が良いのではと聞く事を遠慮していたのだけれど……ただ、段々と目前の少女にそう言う細やかな気遣いは無意味と言うか時間の無駄らしいと言う事に気付きつつあったので。
『あー……それは、その、ひょっとしたら間に合うかも知れへんな思て……』
 そこで少女は初めて後ろめたそうに目を逸らした。
 ただそれもどうにも軽い調子で……丸で、ちょっとズルをしようとした事を指摘された子供の様な態度と仕草だった。あかんかもとも思ってはおったんよとかでも一応なとか何とかゴニョゴニョと言い訳がましい呟きを零しても居たし。
『ええとな、つまりまあ、その……お姉ちゃんでは、未だ居れるかなて思て』
 まあ、言ってる事は相変わらず曖昧かつ意味不明の妄言にしか聞こえなかったが。



●とある級友の述懐
(※時系列:新宿島漂着より暫く前/クラスメイト視点)

 最初、『面白い奴』だと思ったのだ。
 佐野埜之子と言う娘は最初、クラスの中でも目立たない存在だった。授業中も休み時間もずっと何かしら絵を描いていて、他者に関わろうと一切しない。特に容姿に優れている訳でも無いが、不潔と言う訳でもなく寧ろ常に身綺麗で(これは後に弟による世話焼きの結果だと判明するのだが)、常に己のペースで淡々としている様子にはある種のミステリアスさすら感じる事があった。まあ、補足の通り酷い誤認だったのだが。
 そんな彼女が突然他者に関わる様になり、笑顔すら振り撒く様になり。挙句異性が相手でも全く躊躇なく近付く触れる距離感の無さ迄発揮し出して……まあ、クラスが滅茶苦茶になった。どうやら特別美人と言う訳でも無い事が逆に思春期の雄共には期待に繋がったらしい。年単位丹念に下拵えした上での無自覚クラスクラッシャーだ。ひどかった。
 それで、自分が火消しに奔走する事になった。別に善意や奉仕心からでは無く、正直に言えばちょっと楽しそうだと思ったから。代り映えの無い日々に訪れた刺激的なイベントと思っていただけで、気持ちとしては野次馬に近かった。結果、埜之子と言う人間の正体と言うか、本性を知る事になった時に私の持った感想も『面白い奴』だったし。
 物心がついて程なくから絵に傾倒。どうも本人自身覚えていない原点に届く『絵』の完成を目指して延々描き続け、未だ指先すら届いていない。結果、他事のほぼ全てを投げ捨てたその精神は有体に言って部分的に幼児段階で止まってる箇所すらあった。勿論年相応に育っている部分もあるのだが、それが逆にその性格を読み難くもしている。フォローすべきだったろう立場の両親は揃って仕事人間で家庭を手厚く顧みる方では無く、挙句が少し前に父親の浮気から離婚したとの事で……寧ろ最近は埜之子の側が主張やり取りの仲介をしているらしい(自分からは動かないが、頼まれればそれ位は素直に請け負うのだ)。正直、献身的……と言うか極まったシスコンの弟の存在が無ければその生活はとっくに破綻していただろう。
 これを面白いと思うのは聊か不謹慎かもしれないが……それでも矢張り面白いとしか言いようがなく、私は彼女に関わり続ける事になったし、必然その面倒を見続けるシスコン馬鹿とも深く関わるようになった
『最低限の社会性を身に着けさせるべき』
 シスコン馬鹿のその方針に、基本的には私も賛成だった。その為に『クラスメイトに関わる様に』と姉に言い含め、その姉が唯一自分が関わる対象だった弟に対する態度そのままにクラスメイトに関わった結果があの悲惨なクラスクラッシャーだった訳で……結果を見ると散々たる有様だけれども。それでも、考え方自体は間違っていないと当時の私は考えた。芸術の事等分からないが、けれどどう考えても埜之子のこれまでの人生には深みが無さ過ぎる。興味の無い事を全て無視して生きて来た結果、経験も足らない知識も足らないこの状況を考えれば、彼女が望む『絵』が完成しない原因が其処に在ると考えるのは至極順当だろうと。
 結論から言えばそれは間違いでは無かった。けれど、見落としが一つあって……



●とある母親の反省
(※時系列:幼少時/情報履歴)

 佐野衛子と言う女性は、俗に言うバリバリ働くキャリアウーマンと言う奴で、仕事人としては優秀だった。だが、その引き換えに母親としては無能だったかと言うとそう言う訳でもない。悪く見積もっても普通程度と言えるだけの事はしていた筈だ。ただ逆に言えば際立って秀でているとか、極端に特化しているとか、そう言う要素はなかった。
 だからハッキリ言って彼女がそれに対処できる目は無かったと言えるし、それは彼女自身分かってはいた。その上でどうした所で後悔は残ってしまうのが人情と言うだけで。
 ある時ある所に酷く残酷で悪趣味な絵画が展示されていた事は誰のせいでもない。芸術の分野にはそう言う事もあるだろう。幼い娘がそれを見てしまったのは、下調べを怠った母親の手落ちではあるのかも知れないが……流石に其処までを求めるのは常識的に考えて過分だ。
 ワンワンと泣き出した娘の目を塞ぎ、抱き締めて宥め、これはいけないもので子供が見てはいけないものだから忘れろと言い聞かせたのは。まあ、至極当たり前の判断だ。それが結果的に間違いだったとして、責めるのはお門違いだと言って良いだろう。

 けれど、間違いだった。
 元々お絵かきの好きな子供ではあったが、翌日からの絵への固執は明らかに常軌を逸していた。他の遊びや寝食を押し退けてまで描きたがる、その癖、描いている途中で違うと口をとがらして止めてしまう。その内違う違うとかんしゃくを起こして泣き出す癖に、それで描くのを止めようとはしない。泣きながらそれでも描き続けようとする。
「あれは、ウチの! ウチがかきたかったん!」
 意味不明な物言いを根気よく聞き続け、整理して、咀嚼して、ようやく気付いた。自分の娘は、どうやら芸術と言う物に魅入られたらしいと。そしてそれは、母親としての彼女に取って否定すべきものでは無く、寧ろ彼女は日頃から『我が子がそう言う望みを持ったのなら、それを遮る事はしたくない』と思って居た。
 だから勿論、そんなつもりはなかったのだ。けれど結果的に遮ってしまった。それは彼女に取って失敗だった。
 悪い事に、いっそ稀有な位に素直な性質な娘は彼女の言いつけを彼女なりに守ろうと、自分が魅入られた絵の事を思い返さない様にしていて。事情に気付いた時にはスッカリ絵の内容は忘れてしまって居た。ただ、その時に芽生えた『自分こそがこの『美』を創りたい』と言う狂おしい衝動だけをその魂に刻んだまま、肝心の道しるべの形を忘れてしまったのだ。
 慌てて調べるも、そこは所謂自由展示スペースで、誰が何処に何を展示していたかが酷く曖昧だった。そもそも彼女自身はその絵をほとんど見ていない。泣きじゃくる娘を目の前に呑気に眺める時間も理由も無かったし、そのまま急いで離れたのだから当たり前だ。つまりまあ、現物を探し出す事は出来なかった。
 もう一度言う、彼女は悪くは無い。それに正しく対処でき得たのは相当な天才か超人か変人だろう。優秀ではあっても常人で真っ当な人間である佐野衛子と言う女性が対応できる出来事では無かった。
 だが、それでも、矢張り、当人からすれば痛恨の失敗経験で。結果、彼女はある種の負い目を以て娘の創作活動に対してポジティブな態度を通す様になり、その裏表である生活態度の不味さにも目を瞑りがちになった。協力的な放任主義となったのだ。
 それがある種の遠因とも言える。これもまた、決して彼女のせいではないのだけれど。



●あの日彼女が何を見たか
(※時系列:新宿島漂着直前/埜之子視点)

 聞いた事も無い様な物凄い音がして、世界が揺れて、そのまま横に向いた。
 その日は平日で、時間は昼前。普通なら学校に行っている時間だったけど、父に会いに大阪に行く事になったので休みを取っていた。
 両親はもう何年も前に浮気が理由で離婚して居るのだけど、親権等の最低限必要な事は兎も角、前住んでいた家の事や其処に置いてある私物に関しての事その他、細々とした事が曖昧なまま放置されているままらしい。
 それは、当時速攻で家を出る事を決めた母と、それに同調している弟が父と対話をする自体を拒否しているからだ。それで唯一父と話す事を特に嫌だと感じない自分が定期的に電話で話しているけど、父の意志はどうもうまく伝わらず(※訳注:言う迄も無くこれは間に素っ頓狂な埜之子を挟んでいるせいである。当人に悪気は無いが)、母と弟は何か意見を言う事も嫌がるので全然話が進んでいなかった。
『そのままで良い訳ないだろ。後に回せば回す程拗れるばっかりだ、物別れになるにせよ一度はちゃんと腹を割って話せよ』
 それを説得したのがきょう子……クラスメイトで、何でそこまでしてくれるのかは良く分からなかったが。ともかく母と弟が『心情的には嫌だが、道理としては確かにその通りだ』と納得し、それで何年ぶりにか直接会って話をする事になった。
 区内での大天使とアークデーモンの小競り合いがどんどん多くなってきているので、いっそ疎開するのも考えて見ようと。先に行った母にだから必要な荷物を纏めて持って来てくれと言われて準備している時。弟は丁度買い出しに出ようと部屋から出ていた所だった。
 そこでそれが起きた。
 滅茶苦茶になった視界の中で、マンションが倒壊したのだと気付くのに暫く掛かった。気付いたら、なるほどクロノヴェータ同士の戦争(後から思うに、ディアボロスも混ざっていた可能性もあるが)に巻き込まれたのだと理解するのには時間を要さなかった。それから、運よく自分が五体満足なのだと確認して、周囲で戦闘音が続いている事も認識して、逃げなければいけないらしいなあと理解して、面倒くさいなと思う気持ちを押しのけて、瓦礫の合間からのそのそと這い出た。

 陽の下に戻った眩しさに目が慣れて、フラフラとどれ位歩いた先だろう、数歩程度かも知れない、良く覚えていない。その後の事の記憶ばかり鮮明でそれ以外が曖昧になってしまっているから。
 其処に地獄があった。
 酸鼻を極めると言う言葉は知っていたけど、意味を体感したのはこの時が初めてで、酸いその匂いは血やその他の体液や或いは砕けた建物から漏れ出た何かしらの化学液か……ツンと鼻の奥が痛くなって涙が出る。
 けれど涙は直ぐに拭った。だってその風景を見なければいけないから、見たいから。
 あらゆる物が砕けている壊れている。標識や車や建物や自動販売機や、元は何であったか分かる物が殆どで、けれどそれが見た事も無い様な形に変わり果てている姿はこの上もなく取り返しの付かない風景。
 けれど、それ以上に。
 あらゆる命が砕けている壊れている。悪魔が大天使が人間がその他が、元が何であったか分かる者が殆どで、けれどそれが見た事も無い様な形に変わり果てている姿はこの上もなくあと戻しの効かない風景。
 なのに哄笑が聞こえる、武器を振り翳し火器から死をばら撒き笑う殺戮者の笑い。なのに怒号が聞こえる武器を構え火器から死を噴き出しながら戦う兵の気合。それに入り混じり悲鳴が怨嗟が苦痛が嘆きが呻き声が聞こえる聞こえる聞こえる。そしてその全ての故が視界の中に詳らかで。何よりも恐ろしい戦争が、何よりも悍ましい殺し合いが、何よりも底の無い地獄が……
 そしてその地獄の中で一際輝き、その存在一つで周り全ての美を完成させる『美』が其処にあって。
 それは、人の形をしていた。



●とある級友の後悔
(※時系列:新宿島漂着より前/クラスメイト視点)

 その見落としに、最初の内は気付きもしなかった。
 気付いても少しの間は寧ろ良い傾向なのかも等と楽観視していた。
 段々おかしいと気付いて来て、理由に思い当たってからは頭を抱えた。
 困った顔をするのも、悩むのも、時に苦しむ事だって、人間には当たり前の事だ。それ迄の埜之子がそう言う言動をほぼしなかった事の方がおかしいのであって、『社会性が身に付いてきた証拠だろう』と良い風に思ってしまった事にだって一定の情状酌量の余地があると主張したい。ただし実際の所は、それは正しいけれど致命的に認識が甘かった。
 未だ短かろうともあの娘は人生を絵に捧げていて、けれどその成果は一切出ていないし道行きは順調ですらなく聞く所によれば弟の手慰みの方が先に進んでいたと認識している。
 そもそもが本来困るし悩むし苦しむべき事なのだ、それは。思春期と言う感じやすい時期を加味すれば最悪命に係わるレベルでの懊悩となって然るべき話なのだ。アイデンティティがどうとかそう言う話になる有様だろう。そして埜之子と言う少女がそう言う事態に陥っていなかった理由は『自分が苦境に居ることを自覚できるだけの精神的成長が伴って居なかったから』に過ぎない。普通の人生に一切目を向けないままだから、『自分が絵の為にどれだけの物を捨てて来たか』をそもそも認識して居ない。当たり前の事だと思い込んでいるから『自分がどれだけのコストを支払って、なのに何の結果も手にしていない』かの自覚がない。だから平気な顔をしていたのだ。
 シスコン馬鹿の弟と、それからその相談を受けた私が埜之子に対して行ったあれこれの『社会性を身に付けさせる為の働きかけ』は、そのギリギリの綱渡りのような状況に対し横合いから突き落としかねない行いだった。貧困層の子供に美食を与える様な、そんな有難迷惑を通り越して傷害にすら近いと言える。
 けれど、じゃあ止めるとは言えなかった。何故なら『外の世界に目を向けさせまともな経験を積ませる』事自体は(少なくとも埜之子に聞き取る限り)、彼女の絵に対して一定の効果を齎していたから。そして埜之子自身がそれに気付き能動的に求める様にすらなり始めていたからだ。今更無かった事には出来なかった。
 だから、ならばせめてと知識を漁った。絵に関する、或いは思想や考え方に関する書を片端から読んで、自分なりに咀嚼して解釈して埜之子に語り聞かせる様にした。彼女にとって自分などさほど重要な存在では無いのだろうけれど、それでも一定以上の信頼と恩義を感じられている様ではあるとの自負があった。だから自分が話す内容は埜之子の中に一応入りはするだろう、その内排出されるのだろうけれどそれでもその間に何か吸収できる栄養や得る気付きがあれば万々歳だ。そうする事で『何かを掴める』可能性だってある筈だ。
 可能性として低かったとしても、駄目で元々だ。そんな不用意な浅知恵で私は……



●とあるオーナー運営責任者の後悔
(※時系列:新宿島漂着後少しだけ後/オーナー視点)

 埜之子の話を一通り聞いて直ぐ、これは自分だけでは手に負えないと分かった。
 だから彼女の事情や人となりを知る人物を求める事にした。つまりTOKYOエゼキエル戦争と言うディビジョンに置ける彼女の友人や親類を探したのだ。件のディビジョンは範囲が際立って狭い、であれば流れ着いたディアボロスの中に見つかる可能性は比較的低くないと。
 果たしてその目論見は当たった、それは紛れもなく幸運だったと言って良いだろう。
 けれど、クラスメイトだと言うその少女の元に向かう道すがら、彼女との関係を再確認しようと埜之子の話を追加で聞くにつれ、段々と不穏と言うか、不安と言うか、正直後悔が湧いて来る事を抑えられ無かった。
 今から会いに行くその娘は恐らく、と言うかほぼ間違いなく埜之子の弟君と恋仲だ。着眼点が独特なせいで全体的に頓珍漢で要領を得ない少女その説明の中でも明白に分かる位に距離が近い、と言うか明らかに必要以上に一緒に居る時間が多い、挙句は夏祭りを半分以上二人で過ごしたり二人の間だけの愛称を使ったりしている。……寧ろそれだけの情報が揃っていて二人の関係に全く気付いていない様子の姉兼級友の鈍感さに恐れおののく他無かった。どう考えても君の存在が縁と鎹になったのだろうに……いや『何でか何時も喧嘩になるのに何時も一緒に居るんよ』じゃないよ本当。
 だけど、その上で、埜之子の弟君は恐らく確定で既に死んでいる。
 刻逆の世界消滅に巻き込まれてではない。姉である彼女の話を聞く限り明らかにクロノヴェータ同士の戦闘に巻き込まれた結果、ディアボロスに成る事もなく死んでいる。つまり、彼の死は恐らく覆らない確定事項だ。
 更に悪い事に、或いは恥ずかしながら少しだけホッとする事に、恐らくこれから会いに行く彼女は自分の想い人の死を既に把握している。……電話越しの会話からの推察だが、恐らく間違いない。寧ろ恐らく埜之子の事も死んでしまったと思っていたのだろう……もしかしたら、復讐者に成り果てた切っ掛けこそが『想い人と友人を同時に喪った』事ではないかとすら思う。それ程までに、電話越しでも伝わって来るほどに先方は埜之子の生存を喜び、その上で酷く慎重に言葉を選んで恐る恐る埜之子の身内は他に見つかっていないのかと確認して来た。
 此方が伝手を辿って島中を探した事と、埜之子自身の証言の大枠を合わせて返答した時。空気が凍る音がした気がしたのはきと錯覚では無かったし、その後の相手の声が力なく震えていたのも電波状況のせい等では無かったのだ。
 だから、そう。今とてつもなく後悔している。仕方のない事とは言え、それでも後悔してしまっている。
 辿り着く事とその先の会話が、正直憂鬱で仕方がなかった。



●芥川龍之介著『地獄変』に関して
(※時系列:新宿島漂着より少しだけ前/クラスメイトによる語り)

 見様によっては、これは良秀と言う男が己が何であるかを証明する物語だと解釈できると思う。
 証明、そうだ証明だ。『これこそが自分である』と言う認定で、逆に言うと『自分こそはこれである』と言う宣言だ。それを誰も彼もに納得させるだけの事をやり通した。そう謂う風に取れると私は思う。
 勿論滅茶苦茶曲解だけどな。でも、そう言う風に見る事でお前の……いや、まあ良いやそれは。兎も角聞けよ。
 話の筋自体は覚えてるな?
 よしよし、偉いぞ。じゃあ差っ引く。思い出せない所は後で読み返せ。
 私が思うに、この話で主人公である良秀が証明した己は三つだ。
 一つは簡単だな。話の主旨その物、『絵師としての自分』だ。
 彼を疎んでいた者や嫌っていた者ですら納得させ「でかしおった」と言わせる神懸った名作を描き上げて見せた。それによって彼が一角の絵師である事は誰一人疑えないものとなる。彼こそは間違いなく、この話に置ける唯一無二で最高最強の天才絵師だろう。
 もう一つは少しややこしいが、『芸術家としての自分』かな。
 絵師とは別にだ。そう言う技術や結果とは別の所にある、『芸術の為に娘の命すら捧げてしまえる芸術の僕』と言う精神性の事だよ。善悪は兎も角、それは何よりも強い覚悟で、半端では無く貫き通す信念で業と言う事だ。これも、誰も否定は出来ないだろう。
 それと最後に……『父親としての自分』だろうな。
 これは一つ前と表裏だ。絵の為に死なせてしまった娘の事を、けれど彼は本当に愛して居たし何よりも大切に思っていた。どうでも良い存在だったのなら、話は大きく変わる。けれど彼は自分の命を捨てる事で証明して見せた。これも、誰もが認めざる得ない。
 つまり此処に『地獄』が三つあるんだ。
 良秀は三つの地獄を以って己を証立てた。一つ、己自身の腕前で描き抜いた『屏風絵の地獄』。一つ、家族を死なせた罪業に塗れ死を選ぶほどの『心の地獄』。一つ、最後に首を括り死ぬ事で自ら堕ちて行った『実際の地獄』。凄まじい出来栄えの屏風絵。後に死に至る程の絶望を飲み込み絵に捧げた覚悟。そして本当に死んでしまう事で証明した家族への愛。この三つの地獄が、彼が何者であるかを証明している。その三つの地獄を以って、良秀と言う人物はこの話の中に完成するんだ。絵師である。芸術家である。家族である。ってな。
 ……まあ、こんな感じだ。
 私の素人考えだが、絵って言うのは自己表現の一面があるだろ?
 であればこう言う例というか、解釈もあるんじゃないかって、そう思ったんだ。……お前の表現の参考になるかは分からないけど。一つの考え方位に思ってくれれば……
「なるほど」
 ん?
「……なるほどなあ」
 埜之子?
 おい、どうした……?



●あの日彼女が何をしたか
(※時系列:新宿島漂着直前/埜之子視点)

 倫理的にそれを否定する事は容易いし、正しい。事実、埜之子の母親は『それ』を描いた絵に強烈に惹かれた幼い埜之子に対しそれを行っている。
 だが、芸術と言う分野は人倫の端にあるルビコン川を時に踏み越えさせる。美学と言う概念は恐ろしく広く多様な『美』を認め受け入れてしまう。事実として、忌避すべきネガティブなモチーフを描く絵画は世に枚挙の暇がなく、それは取りも直さずその美しさに憑りつかれる者達の存在を如実に証明している。
 善悪ではない。好悪ですらない。ただただ純粋に、ただただ無配慮に、ただただ直感的に、埜之子と言う名の少女は其れを『美しいもの』だと認識した。幼い時分の己の魂に刻まれ、良識によって刻まれ曖昧に薄れながらも尚その心を捉えて離さず、ずっとずっと探し模索し続けた風景。地獄と言う名の美。
 未だ、その全てを理解した訳では無かった。未だ、曖昧なままの部分もあった。厳密に具体的にこの風景の中の何を自分は美しいと思っているのか、その正確な理解には辿り着いていなかった。けれど、けれど、それまで姿すら見えなかった其れに手が触れた事だけは確かだった。
 ただ残酷である事が重要ではなく、苦しみや死が溢れていることが必須と言う訳でもない。けれど紛れもなく間違いなく、それらに近い所にありそれらに伴う事の多い概念。それこそが埜之子と言う娘が追い求めていた『美』であり、その結実であるそれこそが埜之子の『絵を完成させえる必須要素』。無才の殻を打ち破り新たな世界に足を踏み入れる為に必要なモチーフ。それを絵に描きさえすれば……いいや、ただしっかりと観察し目と心に焼き付けるだけでも良い。そうすれば、自分の絵はついに完成するか、或いは完成し得るだけの段階に到達するだろう。そう確信できるほどの決定的な唯一無二のそれ。
 
 つまり。何よりも大切で、己の一番の協力者であり理解者でもあった弟が、そこで死に瀕していた。

 マンションの倒壊に巻き込まれたのだから、絶命していないだけ幸運だったとすら言える。けれどそれも時間の問題に見えた。全身に刃物や瓦礫が刺さり血まみれで形が歪み肌が裂け骨が砕けているのが一目でわかる。唯一綺麗に原形を保っている右腕は、けれど服の袖口に付いた火に焙られている。辛うじて動いている事だけで『まだ生きている』事が分かるが、その『まだ』が後数十秒以上続くようには余り見えなかった。意識は恐らくないか、合っても朦朧としているのだろう。此方が見えているのか居ないのか分からない、ただ小さな呻き声だけが辛うじて聞こえた。
 彼の死を見届ければ、きっと己の絵は『成る』だろうと、確信があった。描かなくて良い、ただしっかりと観察すればそれで充分だ。そうハッキリと理解できた。
 ただ見ているだけで良い。
 どの道もう助からないのは明白だった。
 自分の大好きな弟。世話焼きの弟。優しくて気の利く弟。姉である自分を何より大切にしてくれた弟。愛しい家族。
 ただ、2秒もしない内に耳障りな音が鳴り響いた。五月蠅くて邪魔だが、無視する事は一応可能ではあった。
 けれど3秒ほどの段階で視界が勝手にズレた。物凄い勢いで転回してしまってまともに見えやしない。ただ近付いては居る様で。
「            」
 そこでようやく。その耳障りな音が自分の上げている悲鳴だと気付いた。
 きっちり観察して見届けなければいけないのに、そんな事をしても無駄なのに、どうしてもうどう見ても手遅れな弟の身体に取り縋っているのだろう自分は。
 しかも涙のせいで視界が滲んでほとんど何も見えない。
 これじゃあ駄目だ。
 駄目なのに。
 でも、でもさ。でもね。ねえ、とよ君。どうして。弟。ああでも。けれど、何も考えれない。何も出来ない。何も為せない。
 羽搏きの音がした。そう言えば此処はクロノヴェータ達の戦いの中。だからきっとそれは天使か悪魔の翼の音で。
 その音の主がこれを為したのだと頭の隅で理解して。傍らに落ちていた何かが手に触れて。
 何らかの感情が
      浮かんだ様な
    気がした瞬間かその前か辺りで、
  首筋に冷やりとした感触が走って
   自分の首が
           コロリと
                     落ちた。



●とあるオーナー運営責任者の思案
(※時系列:新宿島漂着後少しだけ後/オーナー視点)

「……それで、お前はこれからどうするつもりだ?」
 埜之子の話が一通り終わった時、級友の少女が言ったのはそんな言葉だった。
 己の恋人が死に、その姉である級友もまた死ぬ迄の話。現状を鑑みればその際、死の直前に復讐者と『成った』埜之子だけが新宿島の浜辺に流れ着いたのだろう事は明白で。その上に重ねて姉の語った弟の死に際する心情は……彼女からすれば控えめに言っても相当にショッキングな物だった筈だろう。
 なのに泣きもせず、取り乱しもせず……けれど、腕組みをし睨み付ける様に埜之子を見つめる張り詰めたようなその顔を見れば、それはただ堪えているだけなのだと言う事は分かった。
「とよ君の言う通りにしよかと思う」
 隣に座る埜之子のその声は暗く沈んでいたが、それが最愛の家族の死を思い返しての物なのか……それとも最愛の家族を喪う事でようやく得たチャンスをふいにしてしまった事を思い返しての物なのか……どうしてもその判断は付かなかった。
 せめて両方であって欲しいとは思う。
「全部とよ君のな、言う通りやったし……」
 たどたどしく考えながら喋るそれは相変わらず言葉足らずだったが、前もって聞いていた事でその意図は理解できる。『人と接し、関り、交友を広げろ。そうすればきっと姉ちゃんの絵の足しになるから』と言う弟からの指示の事だろう。事の是非は兎も角事実として、彼女は『誰よりも接し、関り、交友した弟の死に際する事で、切望し続けた絵の完成への筋道に肉薄した』のだから。……皮肉を通り越して残酷な結果ではあるが、けれど確かに『弟の言う通りだった』と言う事では、あるのだろう。
 だが、それはつまり。
「じゃあ、何か。つまり」
 弁護して置くと、埜之子とて平然とした風にそう言った訳ではない。寧ろマイペースな彼女にしては稀有なまでに思案と懊悩の重なった態度ではあった。
 だが、どう言い繕ってもそれは。
「お前は無残に死んだ姿を見せて貰う為に友達を作るのか」
 そう言う事になるだろう。
 話を聞くに明確に、埜之子の弟である豊太と言う名の少年は姉の為に心を砕いていたのだろう。特に姉がその人生の大半を注いでいた『絵』に対する支援と補助に全力を傾けてたのだろう。だから、姉である埜之子が弟を喪っても尚、或いはその死を踏み躙ってでも『絵』に向けて邁進する事は、見ようによっては弟君の遺志に沿う事にもなるのかも知れない。勝手な想像だが、あの世に類する場所で彼がこの会話を聞いていれば、寧ろ『仕方ねえな姉ちゃんは』と頭を掻きため息を吐く程度で受け入れるのかも知れない。
 だが、遺された側である目前の少女からすれば。そんなのはただの理屈だろう。
 恋人である豊太少年の死を、未遂とは言え丸で貴重な経験値の様に消費しかけた埜之子を。
 あまつさえ、それと同じ事を今後続け様とするかも知れない佐野埜之子と言う名の娘を。
 まさか赦せる道理は……
「やっぱり……そない、せえへんと。あかんやろか……?」
 泣き出す寸前の幼子の様な声だった。



●とある級友の思惑
(※時系列:上述からの引き続き/クラスメイト視点)

 自覚は無くとも、彼女が苦しんでいるのを知っていた。
 ずっと悩んでいた事も、足掻いていた事も、出口のない袋小路の中にいる事も知っていた。
「やっぱり……そない、せえへんと。あかんやろか……?」
 でも、親と逸れた迷子みたいな。そんな顔、初めて見た。
 迷わずそうすると言うなら、こいつはもう人ではない『ひとでなし』だと切り捨てれた。
 迷わずしないと言うなら、こいつは相変わらず私のクラスメイトなのだと受け入れれた。
 そのどちらかなら……いや、これは言い訳ですら無い。せめて片方であって欲しかったと言うのは私の都合でしかない。
『お、俺とずっと一緒に居るって言うなら……さ。必然的に姉ちゃんの世話もずっとする事になるぞ?』
 あいつがどれだけ姉の事を気にかけているか知っていた。
 あの男が埜之子の為に何を支払う事にも躊躇しない事も知っていた。
『うっせえ上等だあのクソバカ一人の面倒位一生見てやる!』
 その上で約束したのに。分かった上で宣言したのに。売り言葉に買い言葉の若気の至り直球ど真ん中ではあるけれど、それでもハッキリそう請け負って……ああ、それで、あのシスコン馬鹿が吹きだす様に笑ったのを見て、内心呆れつつも嬉しくて仕方なくなってしまったのに。
 なのに。
 ああ、そうか。これは私のせいだ。私の失敗だ。失敗したんだ私は。そう自覚した。結局、私は埜之子と言う娘の事を人間としてちゃんと扱っていなかったのだ。興味深くて厄介で面白くて困りものなイベントとしか見ていなかったんだ。そんなつもりはなかったんだ何て、言い訳にもならない。だって事実、埜之子が自分の言葉を重く扱っている事に気付かなかった。どうせ顔の無いモブに毛の生えた様な認識で見られているのだろうと高を括って、余計な事を言ってしまった。そのせいでこいつは、地獄への筋道を見つけて仕舞った。
 マイペースで感情を表に余り出さない埜之子の心情を、けれどその内にどれだけ未熟でも情緒が存在するのだと理解して、もう少しだけでも推し量っていれば。避けれただろう。避けれた筈だ。何が面倒を見るだ。何が世話をしてやるだ。
「……きょう子?」
 取り返しはつかない。言ってしまった事もやってしまった事も無かった事にはならない。
 ただ、まだ出来る事はある。ある筈だ。人任せにするしかないのが申し訳ないけれど、これ以上の悪影響を防ぐには私の存在は邪魔だろう。だけどせめて一つだけ、せめて別の筋道の可能性を残す位は……
「のの子、口を閉じろ」
 両の手を伸ばした自分に眼鏡を外され、キョトンと見上げて来るその顔にそう指示を出す。
 素直に口を閉じるそのとぼけた顔に、正直そうしてやりたいと思った事は無い訳じゃないけれど。でも実際にそうした事は一度も無かった。
 今日までは。
「それと、歯を食いしばれ」
 


●とある級友とオーナー運営責任者の対話
(※時系列:上述からの引き続き/第三者視点)

 埜之子と言う娘は、一度信頼した相手の言葉には大抵素直に従う。例えば突然一発殴りつけた上で『出禁だ。人かそうで無いかどっちにするか決める迄顔を出すな。出てけ!』と理不尽極まりない事を言われてもだ。
 そうやって出て行った少女を見送って、部屋に残ったのは二人。
「……突然暴力を振るうなんてって、説教しないのか?」
 一方の少女……佐野埜之子のクラスメイトが少し皮肉気に問う。
 問われた中年男性は苦笑した。少女には分かり得ぬ事だが、反抗期に入った頃の己の娘を連想したからだ。
「殴る前、逆手で身体を固定していたでしょう?」
 前もって眼鏡を没収し、歯を食いしばらせる。その上でテーブルに逆手を付き身体を固定して殴れば、それは俗に言う『手打ち』だ。パンチの威力は殆ど無かっただろう。その事を正しく把握している男に挑発には乗りませんよと言われて、少女は気まずそうに目を逸らす。
「それで、貴女が殴った事で彼女は?」
 何が意図があって殴ったのだろう、と。であればその意図は、どの様な物だろうか。
 それを問う視線に少女は少し癪そうな表情をしたが、程無く諦めたように溜息を吐いた。
「……私があいつに暴力を振るったのは初めてだ。だから、それであいつは『何で殴られたのか』『何が悪くて怒られたのか』を考える」
 まして、その件に関して埜之子は既に思い悩む様な顔をしていた。それはつまり『不味い事だと位はある程度理解している』と言う事とも取れる。
「そもそもあいつは別に頭は悪く無い。ただ興味の無い事はマジで全く考えないだけでな。……だから殴った。殴られた事で興味の対象になったこの議題をあいつはこれからはちゃんと考え出す」
 そうすれば、彼女は何時か何れかの結論に辿り着くだろう。
 それが、人の結論にせよ、ひとでなしの結論にせよ。何れかに。
「……仕向けないのですか?」
 それを、男は疑問に思ったらしい。
 事実、彼がこれ迄の様子を見た限り埜之子は彼女に対し一定以上の信頼を持っている様に見えたし。そして今目前で唇を嚙んでいる少女は埜之子に対し、明確に『人の結論』を選ぶ事を望んでいる様にも見えた。
 であれば、そう仕向けるべく説得すれば良いだけなのではと。男はそう問うたのだ。
「それは、駄目だ。駄目なんだよ」
 けれど少女は目を伏せる。
「確かにあいつは素直な奴で、私は……馬鹿な事にさっき初めて気付いたんだけど、どうやらあいつに好かれてる。言えばあいつは従うだろう。でも駄目だ……それじゃああいつの芯の方は変わらない。外から強要した結論じゃ、その内あいつはまた惑い出す」
 だから、あいつ自身があいつの芯からあいつ自身で決めた結論じゃないと意味がない。その為には自分は邪魔なんだ。
 そう話すその目元に、明らかに寂しさが浮かんでいるのが男には見て取れた。それはそうだろう、彼女もまた故郷を追われてこの島に来て、どうやら埜之子以外に以前からの知己は居ないらしい思春期のただの少女だ。
「どうして其処まで……」
 思わずと言った風に男は聞いた。聞かれた少女は少し苦笑した。
「あんただって大概じゃないか。本当に偶然最初に行き会っただけなんだろ?」
 今度は男が苦笑する番だった。
「いや、なに……新宿の外に娘がいましてね。貴女達のちょうど一学年上の年です」
 母親似で、今時珍しい程真っすぐで正義感の強いその子は。刻逆が解決さえすればまた会う事が出来る。……豊太と言う少年とは違って。
 少女が少し目元を震わせた事に、男は気付かなかった振りをした。
「見捨てたなんて言ったらきっと怒られてしまう」
 気遣われた事に気付いたのだろう少女が、また気まずそうに頭を掻く。
「……それだけか」
「はい、それだけですよ」
 全くの初対面だが、ある一点でだけはどうやら気が合うようだと。男と少女は苦笑いの顔を見合わせた。
 それから損な性分の二人は、どちらともなく頷き合う。
「あのクソバカがさ、自分で決めれる迄見てやってくれないか」
「私は、完全放任はしませんよ? 出来るだけ良い方に行くようには仕向けます。それが大人の仕事だ」
 譲れぬ部分をハッキリとそう宣言する男に、少女は少し悩む仕草をしたものの結局は小さく首肯する。
 島に来てから知己であるその男なら丁度良い塩梅だろうと判断したか、年の離れた男性に対して好意的であると同時に信頼は余り置かない埜之子の性質を把握した上での判断か……或いはもしかしたら、単に涙腺の限界が近かったのもあるだろう。
 少女は、想い人と級友を一度に喪ったと思った事でディアボロスに成り果てた娘は、級友の存命を知って、会う事でそれを確認して、そしてその話を聞く事で改めて、つい今さっき、想い人の死を確認して。
 最初はポロリとひとしずくだけ。
「……あいつは、多分、出てすぐ位の所で座り込んでると思う。混乱すると、大体、そうやって……考え込むんだ、拾って帰ってやってくれ。……っ。それから……」
 連絡先その他の細々とした情報交換をしながら、男は引き続き気付かない振りをし続けたし、少女もまた何も無いと押し通した。
 それ以外に出来る事はないし、あってはいけないだろう。
 その涙を止める役を担える者は、もう居ないのだから。



●お前なんかにそんなものがあるものか
(※時系列:新宿島漂着後、繰り返し、繰り返し../佐野埜之子)

 どうすれば良いのだろう。
 望みがあって、欲があって、夢があって、そのどれも叶わないどれだけ歩いても歩いても歩いても近づかないどれだけ手を伸ばしても手を伸ばしても手を伸ばしても掠めもしない。どうすれば良いのか全然分からなくて。
 でも、誰も彼も何も言わなかった。その望みが駄目だと言わないし、その欲が駄目だと言わない、その夢が駄目だと言わない、言ってくれれば……困るけど、けれど、ああ駄目な望みで欲で夢なのだと納得できたのに。誰も悪いとは言わなくて、だからきっと届かない理由は自分にあって。それを、誰も彼もどうとも言えなくて。弟は、弟だけは、何でだろう。弟だからかな。手伝ってくれて。でも駄目なものは駄目だと言ってくれて。そんな弟が手伝ってくれるのなら、やっぱり駄目なのは自分自身なのだろうと思うけど、でも何だかそれは安心出来て。その内きょう子も、弟とは少し違うけど手伝ってくれる、何でだろう、弟でも無いのに何でだろう。友達だからだろうかと思って、聞いたら、真っ赤な顔で違うと怒鳴られた。違うらしい。とても残念だけど。何だかちょっと悔しいけれど。でもそれならそれで仕方ないけれど。でも色々教えてくれるのはそうで。結局何でかは分からないけれど。それは、嬉しいけれど。なのに、それなのに、全然近づかない。掠めもしない。
 近づかない掠めもしない近づかない掠めもしない近づかない掠めもしないどれだけ歩いてもどれだけやってもどれだけ描いても描いても描いても描いても描いても描いても描いてもどうしてだろう。どうしてなのだろう。
 どうすれば良いのだろう。
 ピリピリする。チリチリする。何だろうこれ。前に進まない内に段々と何かが後ろからやって来る。ピリピリ。チリチリ。ゆっくりと近づいてくる。追いつかれたらどうなるのだろうか。怖い。けれどどれだけ前に進んでも後ろからやって来る方が少しだけ早くて。
『……悪い。お前は、分かってないから平気だったのに。私達が分かる様になれと仕向けたせいで、だんだん平気じゃなくなって来てるんだ。私達のせいだ。……本当にごめん』
 そうなの? そうかなあ。
 興味が無かった事。どうでも良い訳じゃ無いけれど、絵の事で忙しいから後に回し続けてた事。弟が言うから。きょう子が教えてくれるから。覚えるようにして、考えるようにして、そうした結果、ほんの少しだけど絵が前に進んだ気がする。だから、謝る事なんて無いのにな。ピリピリとチリチリは痛いけど悲しいけど辛いけどでも絵が前に進むならその方が嬉しいから。謝る事無いのにな。
 追いつかれたらきっと。酷い事になるけれど。追いつかれる前に辿り着けばきっと大丈夫だから。
『それは無理とちゃうかなあ』
 何で?
『やって、あんなチャンスはもうあらへんし』
 そうかなあ。
『これから新しく作るんやったら別かもやけど』
 だよね。
『作るん?』
 ………………。
『作れへんやろ? やって、あんたは何でもあらへんもの』
 何でも、ない。
『何者でもない。何の証も立てれてへん』
 何も。
『絵仏師良秀は、三つの地獄によって己を証明したんやってね』
 きょう子が教えてくれて。なるほどなあて、しっくり来たから。
『それは何?』
 ……屏風絵の地獄。誰もが認める凄まじい出来栄えの、神懸かった地獄絵図。
『それは完成した作品。そしてお前は違う。お前は其れを為してない。結局一度も絵を完成させる事が出来ていないお前はその地獄に値しない』
 ……心の地獄。何よりも大切な家族の命を使い潰してまで芸術を求める覚悟。
『それは美に捧げる生贄。そしてお前は違う。お前は其れを為してない。弟の命を捧げ切れず死に耐えられなかったお前はその地獄に値しない』
 ……実際の地獄。死なせた娘の後を追って自死する事で向かった、家族の元。
『それは大切な人への心。そしてお前は違う。お前は其れを為してない。お前に、大切な弟の死を前に3秒も悩んだお前にあの子の家族を名乗る資格何てある筈が無いだろうが!!』
 …………ああ。
 ああ、そうだ。そうだね。
『それでも後を追えば最後の地獄には行けるかも何て、図々しい事この上ない。ディアボロスになったから、再漂着してしまうから何度首を掻き切っても無駄だった? 違う、そんな事は理由じゃない。お前はただ値しなかっただけだ』
 何にも。
『値しない。何にも成れない。お前の望みは完成しない。お前の欲は完遂しない。お前の夢は完了しない。お前は、永久に未完成のまま』
 練習で、勉強で、習作。完成品ではない。
 ピリピリと、頭蓋が砕けそうになる。チリチリと四肢が千切れ飛びそうになる。気のせいだ。気のせいだけど気のせいじゃない。泣いても喚いても吐いてものた打ち回っても壊しても壊れても砕いても砕けてもどれだけ嘆いても底は曲がらないし。……そして、慰めてくれる弟はもう居ない。
『お前は満たない。お前は満たない。お前は満たない。未だ満たない、これからも満たない。ずっと満たない』
 ずっとずっと半端者。
 どれだけ苦しんでも足掻いても歩き続けても近づく事すらない不足。足りない。足りない。足りない。
 才能が足りないセンスが足りない実績が足りない覚悟が足りない愛情すら足りない。
 パラドクスで起こせるようになった奇跡に何の意味がある? そんなものは望んだものじゃない知っているそんなものは欲しいものじゃない知っているそんなものは夢見たものじゃない知っている。
『だから、お前はなあに? 望んだ結果に満たない欲した美に満たない帰れる愛にも満たないどうしようもない半端者』
 半端者。半端者。半端者。それを何と言う。
 それに名前でない名前に値しない名前を付けるなら。
『お前に唯一相応しいと言える言葉』
 地獄未満のエチュード。

『お前は地獄に届かない』




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